週末を利用して京都に行った。財布の中に 46 円しか入っていないというイマドキの小学生どころか幼稚園児以下の状態で半日以上お寺を巡ってみたりした。お金は全額友人に借りたので無問題でした。全くもって無じゃありません。


しかしその昔、修学旅行で行ったときにはダルくてダッシュで駆け抜けた社寺および庭園の数々も、ある程度年齢を重ねて改めて見てみるとその趣が多少なりともわかるようなわからないような感じでなかなか堪能できた気がしないでもない。特に庭園は良い。苔の具合や水面に反射する紅葉した木々等々、結構クるものがあった。そんな感じでおれの芸術理解っぷりは時間(とき)の経過とともに徐々に研ぎ澄まされていき、仏像がズラリと並んでいる様を見たときに最高潮に達し「いま流行っている萌えフィギャーの数々も数千年の時を経れば国宝としてこんな感じで有り難がられるに違いない!」といった旨のナイフみたいに尖った発言をしたら


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同行者全員にこんな顔をされました。わかってない、みんなわかってないよ! そもそも芸術というものは精神世界の拡張のための触媒的な作用をs(略)というわけで昨今のフィギャーはフィギャーと言うよりもヒギィ!のレベルに達しつつあると言っても過言ではないのです。さあ諸君もヒギィ!を買おう、買うのだ!ヒギィ!(マントをはためかせつつ)


それにしてもアレだ、京都の観光地は人が多すぎた。しかも全員が全員自分勝手なタイミングでデジカメのフラッシュを光らせケータイのカメラのテレーンという間の抜けたシャッター音を響かせるので風情も何もあったもんじゃない。財布の中に六円しか入っていない(途中バス代として四十円使った)おれはそんな様子を見るにつけ「こいつらが撮った画像を全て集めれば観光地のあらゆる位置からの映像を3Dで再現できるんじゃないだろうか」なんてことをずっと考えていた。あと帰ってきてから 萌えを焼き払え!――三島由紀夫『金閣寺』の巻 が酷く面白かったことを思い出し、金閣寺に行かなかったことをちょっと後悔したりしなかったりした。それにしてもすげー話だよなこれ。


そして帰ってきたら風邪をひいた。もうだめだ。